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ピッカリ注目!ひたむきな農業者の背中

くじけてたらあかん/藏光俊輔さん

2016.10.17和歌山県日高川町 JA紀州青年部(『地上』2016年2月号より)

幼い頃の原風景が、心にあった。順調だったサラリーマン生活に区切りをつけ、帰郷した。水害に見舞われた。それでも立ち上がった。自らの足で、農園のブランド化に突き進みながら、地域をいかに維持・発展させるか、自らに問いかける。

週末を農村で過ごす都会の人がいる。 ならば、ぼくはその逆をいこうと思ったんです

 大阪方面から高速道路で和歌山県に入り、和歌山市を抜けると、道はミカン山を分け入るように進む。11月下旬の昼下がり。木々に実る無数のミカンが、柔らかな秋の日に輝き、なんとなく星空を連想させる。
 藏光俊輔さん(36)の作業場に着くと、妻の綾子さん(36)とミカンの選別作業をしているところだった。外の風は冷たいが、風が届かない作業場はシャッターが半分ほど開かれ、漏れ入る日ざしが心地よい。
「ふだんはもっと暖かいんですけど、寒くないですか?」
 藏光さんはわざわざ作業の手を止め、シャッターを上へと押しやる。床の日だまりはその広さを増し、スズメのさえずりが耳に届く。この地で、温州ミカンなどの柑橘類やウメ、カーネーションを生産している。

日高川町は和歌山県のほぼ中央部、日高川の中流域に位置する。温州ミカンなどの柑橘類やウスイエンドウ、ブロッコリーなどの野菜類の生産が盛んで、山間部ではウメやシイタケなどが生産される

両親のほか、農業には妻の綾子さんも従事する。綾子さんは大阪育ちで農業とは縁がなかったが、藏光さんと知り合った当初から、Uターンする思いがあることを聞いていたので、抵抗はなかったそうだ

ウメとカーネーションは、インターネット販売にも対応するが、市場出荷が中心。カーネーションはおよそ20年前、父をはじめ集落の10軒ほどで取り組み始めた。現在は藏光農園だけが生産している

就農を見越した就職

 3人きょうだいの長男に生まれた。小学生の頃は、夏休みになると父に連れられ、近くを流れる日高川で川遊びに興じたのだと、懐かしそうに話す。
「農業を継ごうとか具体的なことは考えていませんでしたが、川があって、楽しく泳いで。こういう環境、生活スタイルが好きだったんだと思います」
 和歌山市にある私立の中高一貫校を経て、京都大学に進学。卒業後はカタログ通販会社の営業職に就いた。
「いつからかははっきりしませんが、就職するときには、将来の就農を視野に入れていたのは確かです。これからの農家は、みずから売る力が必要だと思って、営業を希望しましたから」
 東京で3年間、着物販売の営業で駆けまわり、京都にある本社の経営企画部門に異動。会社経営の実務を担った。その間に、学生時代からの知り合いだった綾子さんと結婚した。
 転機が訪れたのは、30歳のときだった。藏光さんは言う。
「前々から30歳を区切りにしたいと思っていたことと、ウメ農家の親戚が亡くなって、園地の引き受け手を探していたという巡り合わせで……」
 しかし一方で、仕事は順調だった。都会の生活を楽しいとも感じていた。Uターンしたら、こんどは都会が恋しくなるのではないか。正直、不安はあったと、藏光さんは打ち明ける。
「でも、あるときふと思ったんです。都会には週末に地方へ出かけ、畑仕事など農的生活を楽しむ人がいるけれど、その逆もありなんじゃないかと」
 ふだんは地元で農業をして、ときどき営業しに都会へ打って出ればいい。そう思ったら、不安が一つ和らいだ。こうして2011年、藏光さんは故郷に帰り、就農した。

ネームバリューを高める

「それからほぼ5年。ウメは親もやっていなかったので、JAの営農指導員や栽培農家にいろいろ聞きながらやっています。ミカンは親からちょっとずつ習ってきて、カーネーションは習い始め、という現状です」
 しかし、藏光さんの経営はすでに、大きな特徴を打ち出している。その一つが、ミカンの“木なり完熟”だ。主力にしている品種は、『ゆら早生』という極早生種。収穫して追熟させるのではなく、完熟するまで木にならせておき、糖度をアップさせる。それでかつ酸味もほどよく残っているのが特徴だ。
「しかし、完熟させているうちに、市場の中心は冬ミカンに移行して『ゆら早生』があまり扱われなくなってしまう。だから、就農当初からインターネットでの販売を進めてきました」
『ゆら早生』は樹勢が弱く、1本の木から多くの量を収穫できない。藏光さんは剪定などで樹勢を強める試行錯誤をしながら、単収のアップをめざしている。また摘果数を慣行より抑え、その分果実は小ぶりになるが、ネット販売ではそれが他との差別化につながるのだという。
「ミカンに含まれる成分は、果実の大小で大きな違いはない。つまり、小さいものは味がより濃縮されているわけです。それをセールスポイントにして、『ちびあまくん』の名前で親しんでもらっています」
 もちろん、帰郷にあたって考えた“都会に打って出る”ことも、忘れてはいない。
「時間ができたら、大阪や東京の卸売業者やレストランなどにアポを取って商談に行きます。うまくいくことのほうが少ないし、利益だってそれほど出るものではありません。だから、藏光農園のネームバリューを高めてくれる相手を探して、営業活動をしています」
 これまで、インターネットスーパーや和歌山市の洋菓子店、東京で名の知れたフランス料理店などとの取り引きを実現させた。こうした実績が、ネット販売では“入り口”としての信頼度の向上につながるであろうことは、容易に想像できる。
「でも、お客さんの9割くらいは、リピーターか口コミで聞きつけたという人です。やっぱりいちばん評価されるのは、味なんだと思いますね」

従業員を雇って町場から 通勤させることよりも、 ここに住む人を増やすことが たいせつだと考えています

藏光農園ではホームページのほかに、Facebookページを開設。そこでは「くらピョン」というキャラクターが、顧客との交流を図るスタイルをとっている。イラストもみずから手がけている

藏光さんが所属するJA紀州青年部紀州中央支部・川辺班は、11人のメンバーがハウスのビニール張りや水稲の防除作業の代行、地元小学校への食農教育活動、農業祭などへの参加といった取り組みを展開している

おじいちゃんの姿に奮起

 そんな藏光さんだが、就農1年めに大きな試練があった。11年9月、台風12号による集中豪雨で日高川が氾濫し、ミカン畑が水没。カーネーションのハウスは、ひざの高さくらいまで泥に埋もれてしまったのだ。
「もう地域の農業は終わったと思いました。そんなとき、後継者もいない農家のおじいちゃんが、平然と泥をかき出してミカンの苗木を植え始めたんです」
 将来を悲観するのではなく、あたかもこれも日々の農作業だといわんばかりの姿に、藏光さんは心を打たれたと話す。
「ちょうど同時期に、ぼくを含めて3人の若者が就農していたこともあって『ここで若いぼくらがくじけてたらあかんな』という気持ちになりました」
 さいわい、藏光さんの主要な園地では、ミカンの木が流されたり、ハウスが倒壊したりせずにすんだ。量は少なかったが、その年の収穫にもこぎつけた。
「ぜんぶが復旧するには1年近くかかりましたが、うちだけでも延べ40人のボランティアが駆けつけてくれたし、激甚災害に指定されて、資金面での支援も受けられた。おかげでこの地域では、水害を機に離農したとか、耕作放棄地になったとかいう話は聞かないですね」
 作業の手を一度休め、藏光さんは胸を張って笑顔を見せた。

地域を守るサイクル

「就農当初は、規模を拡大して、法人化して、従業員を雇う経営をめざしていましたが、最近は考えが変わりました」
 藏光さんは言葉を続ける。
「従業員を雇っても、彼らはきっと町場からの通勤で、この地域に住むわけではない。極端な話、ここに住むのがぼくら家族だけになったら、病院だとか、学校だとか、Aコープだとかが維持できなくなって、ぼくらも生活できなくなってしまう。それでは、いくら農業でもうかっても、意味がないなと」
 まだまだ農業が元気な地域だが、雑木の管理などに率先して取り組まないと、地域インフラの維持が難しくなると危機感を抱く。
「だから、将来は新規就農を希望する若者を、研修生として受け入れたい。そして技能が身に付いたら、いま借りている園地を“のれん分け”するんです。新規就農者だと、農地を借りるのは難しいでしょうからね。その分、新しい園地をぼくが借りる。そういうサイクルをつくって、この地に暮らす人を増やせないかと考えています」
 そして、めざす経営のあり方を、ひと言でこう表現した。
「『知っていることが自慢になる農園』。ミカンやウメ、カーネーションを買ってくれるお客さんはもちろん、新規就農を希望する人にとっても、地域の仲間にとっても自慢になる。そんな農園にしたいですね」(2015年11月取材)


くらみつ・しゅんすけ
1979年和歌山県日高川町生まれ。智辯学園和歌山高校、京都大学を卒業。カタログ通販会社に就職し、東京都や京都府で暮らしていたが、2011年に帰郷して就農。温州ミカン70a、甘夏・ハッサク40a、ウメ80a、カーネーション30aを経営。妻と両親の4人家族。

地上編集部
写真家の光写真部

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