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ピッカリ注目!ひたむきな農業者の背中

牛と共に 仲間と共に/渡邉 靖さん

2016.11.18栃木県那須町 JAなすの青年部(『地上』2016年4月号より)

幼い頃から、牛を間近に見て育った。だから農家になることに、迷いはなかった。 一つの転機は、20代で出場した全国和牛能力共進会。仲間の支えを糧に、がむしゃらに臨んだ大会を経て、繁殖農家になにが求められているのかを自覚した。

「おまえは牛に助けられた」という先輩のひと言が、ずっと心に残っています

 夜のとばりが、しだいに朝の色を帯び始める。1月下旬の6時30分。渡邉靖さん(32)の軽自動車が、牛舎に到着する。外はあいにくの曇り空だが、その分冷え込みは少ない。
「気温ですか? 今朝は氷点下にはなってないですね。でも雪の予報だから、気温は上がらないんじゃないですか」
 牛舎のシャッターを開けながら話す渡邉さんの息が白い。作業用のコートを羽織り、さっそく給餌に取りかかる。配合飼料をまき、しゃくしで柵を軽くたたくと母牛がやってきて、柵の外に頭を出す。そしてゆっくりと、旺盛に舌をはわせる。渡邉さんはここで、和牛母牛13頭、子牛8頭を飼養する。
 3人きょうだいの長男として生まれた。20年ほど前、自宅から離れたところに牛舎が移転されたが、幼い頃は、自宅に隣接する牛舎で牛を見て育った。
 中学から陸上競技を始め、名門で知られる栃木県立那須拓陽高校に進学。3年生のときにはハンマー投げでインターハイに出場した。それでも、進路に迷いはなかった。卒業すると親元を離れ、岡山県にある中国四国酪農大学校に進学した。
 酪農大学校でも、和牛を学んだ。2年制で、初めの1年間は校内で基礎を覚え、翌年は全国各地の農家で2か月ずつ、3か所で校外実習を受ける。渡邉さんは群馬県、栃木県、兵庫県の畜産農家で研鑽を積んだ。そして、2004年に帰郷。そのまま就農した。
「就農当時は苦労もあったんでしょうけど、あまり気にしないタイプなんで……ただフォークリフトがなくて、ロールサイレージを転がして軽トラックに載せてたことは覚えてますね」
 そう言って、声を上げて笑う。1頭に餌をやると立ち止まり、ときには二度見するようにして、様子を観察する。そして、次の牛がやってきたところで、渡邉さんは言った。
「ちなみに、この子が『ももこ』です」

那須町は栃木県の最北端、福島県との県境に位置する。那須連山に近い高原地帯では酪農が盛んで、平野部には水田が広がる。和牛は全地域で飼養されており、ブランド「とちぎ和牛」の主産地。地元で生産・販売されるものを「那須和牛」とも呼んでいる

つなぎ牛舎ではなくフリーバーン牛舎で、牛たちは自由に歩きまわれる。育成牛は餌箱の数を頭数より少なくし、競争のなかで食欲旺盛な牛に育てるなど工夫をしている

全国共進会への挑戦

「ももこ」は、12年に長崎県で開かれた「第10回全国和牛能力共進会」に出品された。同共進会は5年に一度、9つの部門に全国から500頭余りが集まり、改良の成果や優秀性を競い合う。その成績がブランドの市場価値を占うため、参加する都道府県にとっては威信をかけた、まさに「和牛のオリンピック」といわれる大会だ。
「県の畜産協会が、登録された牛の血統を分析して、候補牛を選抜します。その中に、生まれて間もないももこが含まれていたんです」
 県代表を決める選考会は、14か月後。その3か月後に本大会を迎えるというスケジュールだ。渡邉さんは当時20代。不安がよぎった。しかし、本大会に出場できなくても、今後の勉強になる思い、参加を決めた。
 栄養管理や体調管理に気を使い、それに応えるように、ももこはすくすくと成長。みごと選考会を突破し、本大会への出場を果たしたのだ。
「小規模な共進会にも出品したことがなかったので、文字どおり、いきなりオリンピックに出ろと言われた感じでした」
 と、渡邉さんは述懐する。しかし、そこからが本番だった。長い時間立ち続け、歩いたり立ち止まったりさせる調教が始まる。補助員として共に大会に出場した、JAなすの那須営農経済センターの渡邉和明さん(27)は、当時をこう振り返る。
「関係各位みんなが気合いじゅうぶんだから、いろんなところからアドバイスをもらって、どれが正しいのかわからなくなるほどでした。ぼくは営農指導員ではありますが、まだ駆け出しだったので、2人で勉強したという感じでしたね」

強豪県に見せた意地

 それでも、いちばんがんばったのはももこだと、2人は口をそろえる。和明さんは言う。
「栃木から長崎県までトラックで輸送して、疲労もそうとうだったと思います。牛は本来、環境が変わると餌を食べるまでに苦労するのですが、ももこは長崎に着いてすぐに水を飲み、餌を食べてくれたんです」
 大会では、ももこは「第3区」(生後17か月から20か月の若いメス)に出品。成績は一等三席で、全33頭のうち20番めという評価だった。
「審査のとき、優勝した宮崎県の牛と、3位に入った鹿児島県の牛に挟まれていたのですが、見た目からして、飼養管理では強豪県にまだまだ及ばないことを痛感しました。でも、ももこはじつに堂々としていて、調教では負けていなかったと、今でも思っていますね」
 渡邉さんはそう言って、ももこに向けて視線を落とす。
「大会前、ももこの額の毛が少し抜けたと思ったら、白髪が生えてきたんです。調教のストレスかどうかはわかりません。でも、いっしょに出品した先輩農家から『おまえらはももこに助けられたんだぞ』と言われたのが、ずっと心に残っています」

たいせつなのは、肉として評価されること。よい牛肉になる子牛を、仲間と共に育てていきたい

第10回全国和牛能力共進会に出場したときの様子。「有名な畜産県が、県の名前が記された“専用トラック”4台で会場入りするのを見て、一気に緊張が高まりました」と、渡邉さんは当時を振り返る。ももこは、現在も母牛として飼養されている

JAなすの青年部那須支部は、部員数21。「JAなすのまつり」への出店を活動の柱とし、支部間交流を目的とした球技大会など本部活動にも参加している。左端がJAなすのの渡邉和明さん

教える後輩がいない悩み

 そんな渡邉さんをつねに支えたのが、仲間だった。
「那須町は和牛繁殖が盛んで、若手で構成する子牛研究会というのがあるのですが、大会に向けてももこが〝人慣れ〟するように、みんなが毎日交代で調教につきあってくれました」
 メンバーの多くが、JAなすの青年部那須支部の盟友でもある。毎月のせりのあとには反省会を開き、いちばん高値で売れたメンバーが乾杯の音頭をとり、酒を酌み交わす。「ちゃんと爪を切ったほうがいい」「ちょっと太らせすぎだ」など率直な意見の一つ一つが、自身の成長を促してくれたという。
「今は聞くだけじゃなく、語り合えるようになったと思いますが、いつものメンバーの中では、おれが一番の若手。後輩に教えたいことはたくさんできたのに、教える後輩がいないというのが悩みですね」
 それはJA青年部も同様で、若い後継者の積極的な参加を促すために、視察旅行など交流を図る機会をどんどんつくっていこうと、仲間と話し合っているという。

ブランドを守るために

「全国共進会を経験して、こんな牛を育てたいというイメージが持てるようになりました。せりのときにも、見せ方がうまくなったと思います」
 給餌を終え、渡邉さんは牛舎の外に目をやる。明るくなった空からは雪が舞い落ち、気温はむしろ下がったように感じる。
「この牛舎は風通しがよくて、冬場は子牛にとって寒すぎるんです。マフラーを巻いたり、白熱電球で暖をとらせたりと、工夫はしているのですが……」
 現在は1棟の牛舎で繁殖と育成にケージを二分しているが、新たに育成用の牛舎を建て、現在の牛舎を繁殖専用にする予定だと話す。
「母牛をもう20頭くらい増やして、30頭規模に拡大できるといいですね。水稲もやっているので、それ以上はちょっと難しいかなと思います」
 いま、全国的な生産頭数の減少で、子牛の価格は高値が続いている。だからこそ、高いレベルの育成が求められると気を引き締める。
「肥育農家がいなくなったら、繁殖農家は経営できません。たいせつなのは、肉として評価されること。肥育農家が望む、よい品質の牛肉になる子牛を、仲間と切磋琢磨して作っていきたい。それが『とちぎ和牛』のブランドを守ることにつながると思っています」
 そう言って、渡邉さんはゆっくりと視線を移す。その先には、生まれたばかりの子牛が母牛に見守られ、雪のパドックを元気に走りまわっていた。(2016年1月取材)


わたなべ・やすし
1983年栃木県那須町生まれ。県立那須拓陽高校、中国四国酪農大学校を卒業後、2004年に就農。和牛繁殖母牛13頭、子牛8頭を飼養するほか、水稲12haを経営する(受託含む)。また月に数回、酪農ヘルパーとしても活躍する。妻、長男、次男、両親、妹、祖母の8人家族。

地上編集部
写真家の光写真部

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